abstracted 形容詞 うっかりした・ぼんやりした ‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡ ひどく嫌な臭いに、ワトソンは顔をしかめた。 顔をしかめたのが伝わったのか、予想していたのか。 「うっかりしてたよ」 すぐにホームズは言い、悪臭の元の蓋を閉めた。 そのまま実験を続けている。 君がいるのを忘れていただの換気を忘れていただの、ホームズは呟いているが言い訳だとワトソンはわかっている。 椅子から立ち新聞を取ると見せかけて、だからひょいと足を伸ばした。 ワトソンの足は積まれた本を見事に崩した。 「おっと。うっかりしてた」 その本は昨日からだらだらホームズが積んでいた本で、それでも読んでいるのかいないのか分けて積んでいた本で。 奇麗な雪崩。申し訳程度に、ワトソンがまた積み直す。 おかげで、向きも順序もわからなくなる。 ホームズはぴく、とこめかみを動かした。 「気を」「うっかり、してたんだ」 二人、にぃと笑う。 わざとなのはわかりきっている。 どちらともなく、視線を逸らす。 実験をホームズは続け始めた。手にした新聞を広げ、ワトソンは読み始めた。 昼の時刻。 朝にはもう軽く読んだ新聞だ。 「新聞か。 どんな記事が出てるかな。何か面白そうな出来事はあったっけ」 「ええと」 もちろんホームズも読み終わっていて、もちろん内容も忘れていない。 そしてワトソンはいつものくせで、教え始めてしまった。 「そうだね。これはどうだろう? 失せ物探しの」「それはつまらない事件さ。事件とも呼べないね」 「じゃあこ」「もうとっくに警察が犯人を捕まえたよ。 次の事件は君にだってわかるだろ?初歩的なことさ。解説してあげようか? そうそう、そうだな。その新聞はもう読んでいたんだっけ。うっかりしてた」 そうかと呟いて、ワトソンは新聞を閉じる。 思いっきり、机に新聞を叩きつけた。 ホームズが実験に使おうとした、何かの粉がその風で吹き飛ぶ。 「蝿がいたんだ。 うっかりしてたよ。君が実験をしているのを忘れていた」 二人、にぃと笑う。 「うっかりか。それはしょうがないな」 「そうだろう?君もなんだからわかるだろ。 今日はうっかりの日なんだよ」 暫くにぃいと笑い合う。 にぃいと笑って、笑って、顔が疲れホームズが無表情に戻り。 ワトソンは渋々と口を開いたのだった。 「僕は大人だからね」 まずは一言釘を刺してから、それで?と尋ねる。 「どうして今日はそんなにも苛々してるんだい?」 「退屈なんだ」 ホームズはもっとわかってもらおうと、ゆっくりと発音よく喋った。 「たいくつ、なんだ」 そんなことをしなくても、薄々ワトソンはわかっていた。 「でも君は実験をしているじゃないか」 「とても簡単なくだらない実験さ。今日でも明日でも大丈夫な実験だ。 でもわかるかい! 今の私にはこのつまらない仕事しか残されていないんだ」 「それで?」 「君ときたらまったくわからないね。退屈だと言ってるのがまだわからないのか」 「それはわかっているさ。だから、どうして、君の問題に僕が巻き込まれなければいけないんだ」 不機嫌に呟いたワトソンに、さらに不機嫌にホームズは叫ぶ。 「だから何か面白そうな事件を起こすだとか見つけてくるだとか、なぜしてくれないんだ。 こんなにも退屈しているというのに!」 駄々っ子。 瞬時に浮かんだ言葉。 けれどこれは、ホームズらしい甘え方ともいえる、かもしれない。 うっかり思えば、ワトソンはどうでもよくなって。 「んっ」 「っ」 ホームズは口を押さえた。 狡賢い。 あんなにも不機嫌そうだったのに、そんな顔をするとは思ってもなかった。 うっかり愛らしいと思ってしまった。 瞬きをしながら、間近で見上げるワトソン。 本当に、ホームズにしても突然の行動だった。 この場合どうしたらいいか、知識の貯蓄も演技の経験もない。 とりあえず素早く離れた。 キスしてしまったのは、ホームズなのだが。 「それで?」 「あぁ、うん、そうだね」 「僕は驚いただけだよ。 ホームズ、君は滅多に衝動にかられて行動しないからね。 でも恋人同士、だろう?僕と君はさ」 「あぁ、うん、そうだね」 「とりあえず何か食べに行かないか」 「あぁ、うん、そうだね」 シャーレに話し続けるホームズに、ワトソンは首を振りながら近づく。 お気に入りのガウン、その衿を引っつかみ、届いた頬に唇で触れた。 「さ、僕もうっかりキスしてしまったよ。これでおあいこだ」 さて何か食べに行こう、と告げられホームズは無言で頷いた。 頬を思わず押さえる。 こういうとき、本当にワトソンは狡賢い。 何もかも吹っ飛ばし、驚きすぎた頭にあぁそうかお腹がすいたと思い込ませる。 ころり転がされれば、そういえば退屈さはどこへ行ってしまったのか。 永遠の行方不明。 呟いた言葉はワトソンに届かず。 ふ、とホームズは笑った。 うっかりベッドに案内したら怒るだろうか、と。 文