戦場に疲れてしまっていた。
何より私の精神が疲れていた。

軍医として軍に加わってはいたが、他の軍人とさほど変わりはない。
肌も焼けた。身なりには気をつけてはいるが、元から茶色い髪だ。土埃がついていても、紛れてしまう。
湿った土の臭いも血の臭いにも慣れ、口髭についた汚れにも暫く気づかなかったほどだ。
医療道具の重さよりも、銃の重さのほうが慣れてしまったように思える。
しかし、私には何よりも重い医者の誇りがあった。
過去の話なのは、戦場の重さに潰されようとしているからだ。
それなりの使命感に燃えていたはずだが、死者を悼み怪我人の回復に尽力すると、心で思えなくなっていた。
頭で手足は動きつつある。
その戒めに、私は埋葬地へと足を向けた。
手の届かなくなった死者を感じれば、また心から動けるようになるのではと期待して。
そうしてやってきた埋葬地には、先客がいた。
黒目黒髪で肌は焼けているもののどことなく白さを残しているせいか、ナイフが浮かぶ。
細身で上質なナイフだ。
どことなく近寄りがたい。それに誰、とはわからないが、服飾からしてとりあえず上官だろう。
何やら真剣な顔をしている。
このまま行くべきか。
辺りはまだ明るい。向こうの姿がはっきり見えるように、私の姿もはっきり見える。
けれど鋭く、どこか遠くを睨んでいるのを邪魔したくはない。
迷う間に目が合ってしまい、見つかってしまった。
仕方なく挨拶をして、足を進める。
何を言われるか。互いに一人きりだが、向こうは上官だ。亡くなった友人を悼みに来たと言おうか。嘘ではない。
普通の兵士であれば交流は広がらないだろうが、私は治療するのでどうしても交流が広がってしまう。
おかげで顔見知りは増えた。たわいもない話も増えた。
失くす痛みも、増えてしまった。

あぁ、息がつまる。

「ごほっ」
急に煙を浴びた。
変に吸ってしまったせいで噎せる。涙さえ出てしまう。
煙草。煙草の煙だ。落ち着きを取り戻し前を向いてみれば、上官は意外にも近い。
そして、煙草を吸っていた。今は火を消して吸殻を煙草入れにしまっているが。
人に煙を吹くだなんて、なんて人だろう。
「埋葬地は土の湿った臭いが酷いね。煙草を吸いたくなってくる」
応えを待つかのような、沈黙。
とりあえず、無難に頷いた。
「そう警戒しなくてもいい。何も聞きやしないさ」
予想以上の親しみに驚いた。
彼に会ったことがあるのだろうか。
必死で記憶を探してみるが、やはり他人だ。
第一このような印象的な人を、忘れるはずがない。
「他人から親しみを寄せられるのは苦手ですか、軍医殿」
「どうしてわかったのですか」
叫び、そこでようやく思い当たる。
正確な話として、たわいもない話の中に、時折耳に入る噂話に、度々登場する名前。
見ただけでどんな人物か的中させる、膨大な情報量を持った人物。
冷笑の占い師とも囁かれ、的確な指揮と確実な殺人を行う人物。
そんな物語の一人のような、実在する人物。
シャーロック・ホームズの名前に。
「まさかあなたがホームズさんですか?」
「その通りだよ、ワトソン君。最近は吸ってないけども、君も煙草が好きだろう。
その胸ポケットの煙草は古いようだ。一本どうだい?」
私は驚いた。
煙草は確かに最近吸ってはいない。元からあまり吸わないことだし、いつのまにか胸ポケットの存在を忘れていたのだ。
知らず、喉が鳴る。
強い緊張により喉が渇いていた。
それにこの、不気味な親しみは何だろう。
まじまじと差し出された煙草を見る。
これはどういうことなのか。
まったくわからない。
「これを?」
「どうぞ」
彼を見て煙草を見て彼を見た瞬間、閃いた。
この人気のない埋葬地だからこその、秘密の取引が今からあるのだ。
ワトソンは死んでも不審がる人間はいない。ましてや、噂通りのあのホームズなら自分は自然死だ。
銃で撃たれようが、自然死になる。

「私は軍医だから、どうか見逃してくれないか」

唐突に呟いていた。
しかしこれこそ、私の魂の叫びだった。
潰されそうになっていた、誇りの叫びだった。

死にたくない。当たり前だ。
私だけではない、人間は皆そうだ。
それがここで無くなってしまう。
まだ死にたくない。
知ってるぞと喚くのか。助けを求め叫ぶのか。
どうすれば助かるのか。
「誰も来ないし殺そうとも思わない」
「え?」
「なぜそう思うのかが理解できないね。私はここに振り返るために来たんだ。
どうして死んだのか、どうすれば死なずにすんだのか。敵味方の立場で考えていたんだ」
それは今まで以上の驚きだった。
殺人者である彼は私が求めていた、心を持っていた。
私よりも酷い立場にいる。それなのにだ。
屈することも逃げることもなく、彼は前を向いていた。
強く、眩し過ぎる。
焦がれるほどの輝き。
「でもこれだけ説明したのに、納得しないようだ。
しかたないな。私は戻ることにしよう」
呆然としている間に、彼は私の前を横切り消えていった。
文字通り、私はホームズの後姿を突っ立って見送っていた。
急に暗さを感じる。
彼が消えた道を未練たらしく見てしまっていた。
馬鹿らしいが、まるで天使にでも会ったような気分だったのだ。
ずいぶん皮肉屋で腹が立つ天使だったけども。


「なんてすばらしいのだろう」