空を見ていた。 石炭や霧だとかとは、無縁の空だからだろうか。 奇麗だ。 それに微かに漂う、このにおい。 乾いた土でもなく湿った水でもなく慣れた薬品の血の、それらどれでもない。 彼のにおい。 残念だが、無意識に在るせいだろうか。 甘く苦い煙草と不快ではない整髪料と体臭とが混じった、彼のにおいはすぐにわかった。 「いつまで見ていらっしゃるんですか」 「星を見ているだけだ」 「曇り空でも星が見えるだなんて流石ですね」 思わず皮肉を口にしてしまった。 何故かよく出会い言葉も交わすようにはなったが、それだけでしかない。 上官で同郷でもなく共通の友人さえいない、彼と私。 どきりとするものの、もうどうしようもなかった。 親しくなっていた。 苛立ちをぶつけても、怒らないと過信しているからかもしれない。 ちょうどいいことに滲む不快な感情は確実に、黙ったまま私を眺め続けていた彼に因るものだ。 おかげで、落ち着かない。 今日は会いたい気分ではないのだ。 別日なら、彼の出会いを喜べただろう。 せっかく空を見るため、外に出てきたというのに。 日没後の僅かな光を残し、雲ばかりの空は暗くなりゆく。 時は過ぎ、真っ暗で僅かな月明かりでしか、空はわからない。 けれど、この空こそ今の気分に相応しく、また本当に奇麗だと思わせた。 それなのに、ホームズが現れた。 戻るだろうと思ったが、戻らない。 ついに我慢を越えてしまったが、適切な判断ではなかった。 声をかけた後、彼は当然のように私の隣へと近づいた。些か近いような距離で隣に立つ。 それにどうしたらいいのかわからない。 適切な判断は、黙ったまま自室に戻り窓を開け空を見ることだったと、今更に気づいてはいた。 できなかったのは、彼のせいにしたいがそうではない。 私が兵舎に戻りたくないからだ。 「ワトソン君、泥がついているよ」 視界に彼の手。 目を閉じる心構えもできなかった。 自然に優しく、前髪を指が何度もなでる。 あぁ髭にもと、指は手になり、その手は頬をなで口をなでる。 確かに私の髪は茶だ。口髭も茶だ。軍医の立場を自覚し、身奇麗さを心掛けている。 砂ならまだしも、泥だなんて。 ましてや、先程室内で人殺しをした人間に、泥だなんて。 わかっていた。 しかし、温かさの心地よさには勝てなかった。 せめてもの抗いに、一言。 「ありがとうございます。もう泥は落ちたようです」 そうしてこの会話の流れならと、すかさず別れを告げた。 「それでは私は戻ります」 ひそやかに自分以外の笑い声が広がる。 憤りも訝しさもない。 ホームズの笑いは絶望だ。 あぁそうだとも。 この男はもうお見通しなのだ。 敵である異国の人間の文化や行動パターンさえ察し、内通者とさえ陰で囁かれる、この男。 対してワトソンはこうして姿を見せ、触られることを許し、しかも口しか動かしていない。 なんだ。簡単過ぎて嫌になる。 今日は人間を一人殺した。 まだ若い、自分よりも若い男だった。 きっかけは些細な脚の傷だった。そこから化膿し異臭を放った。片足は失うだろう。 本国に送り帰す予定だった。 できなかった。 運ぶのも運ばれて行くのも、片足を切り落とし待つのも。 その男には運と何より体力がなかった。 殺人は時に救いになる。 もう若くもない、ましてや軍医だ。初めてでもない。 わかっている。 ただ慣れていた自分自身に絶望しただけだ。 いや、まだ大丈夫だ。けれど、ホームズは知っているのだ。 変わってしまった、このワトソンを。 「代わりに殺せばよかった」 呟きは強かった。 惨めさが増した。 彼にはある、確固たる信念。 人を多く殺しているのに、それなのにどこまでも強く進んでいける強さ。 必要な悪人として存在できる強さ。 死に立ち止まることなく呑みこまれることなく、それでも死を悼む。 弱い私は彼が心のよりどころだった。 告げたことはない。 私の灯りは弱々しく揺れる。 彼の灯りは弱くもなく揺れもしない。 だから暗闇の中、灯台を頼りに進む船乗りのように、私はホームズに惹かれる。 顔に優しく触る手。 涙が出るほどあたたかい。 咄嗟に彼の手を掴んでいた。 初めてではない。 だから欲した。 必死に指を蠢かし感じとる脈。 生きている。 存在そのままに力強い。 きっとこの脈動は何にも左右されず、老いにより消えるだろう。 彼は永遠に消えない灯。 無情な戦場でこれほどの安心があるだろうか。 自然と彼自身に目が吸い寄せられる。 ホックを外し固い詰め襟を寛げ釦を外し、裸の胸に耳を寄せれば、もっと安心は得れるだろう。 なぜか私は彼に好かれている。 思えば、出会ったときからそうだったように思う。手を存分に触らせてくれるのも、そうだからだろう。 いつのまにか触るようになった彼の手。そういえばきっかけを与えたのは、彼だ。 煙草を渡してきたあの日、意図的に接触を許したのだと思っている。 疑問は尽きないが、何の接点もないのにこうして度々出会うのだから確実だろう。 ホームズ、と親しく呼んでもらいたくてたまらないようだ。 しかし、私はそうではない。 灯りだけが欲しい。 だから、この手首だけで。 滑稽なのは、なんという脆い宣言と、自分でわかっているからだ。 いつから見るだけではなく、言葉を交わし始め、ついには触れ始めたのか。 憧れすら変わっていこうとしている。 その葛藤も彼にはきっと筒抜けだとしても。 蛾のようにはなりたくはない。 ただひたすらに彼は私を見るだけだ。 黒い髪に黒い目。 それでも、眩しい。 文