頬をするりとなでる風。
冷たさを吐き出したばかりのような、温い風。
「もう、春が近いのだろうね」
「あぁそのようだね」
耳に囁かれる、声と同じような優しい風。
戯れるように、ホームズの黒髪を揺らしワトソンの茶色の髪を乱し、通り過ぎていく。
それでも、寒そうにきつく互いの腕は絡んだままだ。
石畳に響く足音も揃いながら、肩を寄せ合い歩く。
ふいに突風。
フロックコートの裾をめくり、帽子を激しく叩いた風は、離れない二人を抗議するかのよう。
ふ、と笑ったワトソンにつられるようにホームズも唇の端を上げた。
「気づいた?」
「もちろんだとも」
「もう、春が近いのだろうね」
「さきほど僕も言ったさ。
春が来てしまった、とね」
馬車が通る。
子どもが走る。
行商人が喚く。
それでもこの距離だ。
耳に囁かなくても、声は聞こえる。
前を向いていても、声は聞こえる。
けれど、耳に囁き首を傾け、会話をするのだ。
そうしたい理由があって、そうしたい気持ちがある。
それが不自然ではない、季節が去っていこうとしていた。
「残念だね」
目を細め、ワトソンは呟いた。
「もっと寒ければいいのに」
消え入りそうな声で。
濁ってしまったようにも見える、その眼の輝きにホームズは見とれた。
きっと茶化されるだろうとわかっていても、どうしても確認したくなる。
「僕と、一緒にいたいのかい?」
眼を瞬かせ、ワトソンはホームズを見た。
ホームズの鋭い眼は珍しく熱っぽい。
だから、ワトソンは茶化さなかった。同じくらいの熱を込めて、ホームズを見た。
「僕が望んで、君がそれを叶えてくれるならいつまでも一緒にいたいよ」
ホームズは逡巡した。
街のざわめきが押し寄せてくる。敵意を孕んだざわめきだった。
静かな、聞ける者だけが聞く迫る足音。
「無理」
かもしれない、は小さな声で。
断言することに、ホームズは疲れた。未来のことなど、わかりはしないのだ。
「そうだろ?だから冬がいいんだ。
君とこうしている時間が長くなるからね」
「そうか。他の季節は不自然になってしまうからかな?」
「そうだよ。外出しても仲良く歩けるなんて、どんなに幸せなことかわかるかい、
ホームズ君?」
「今まで気づかなかったよ、ワトソン君」
楽しそうな声に楽しくなりつつも、ホームズの胸が苦しくなる。
未来のことなど、本当にわかりはしないのだ。
「ねぇホームズ」
呼びかけ、ワトソンは小さく笑うと、急に足を速めた。
つんのめり、慌てるホームズに高らかに笑う。笑いながら、耳に囁く。
「キスがしたくなったから家に帰ろう」
一瞬呆然として、それから苦笑して。
ホームズも足を速めた。
今しか、本当にわかりはしないのだ。
風が吹く。
冷たくもない風だ。
それでも身を寄せ合い離れぬように、風の中を歩き出す。