がぶり噛まれて血が抜けていく。
ぞぞっぞぞぞっ。
鳥肌が立つような音が脳内に響きばちばち光が弾ける。あぁ力が抜けていく。直感。命が抜けていく。
やけに大きな時計の音。
いつもよりさらに煩く。
ちっぽけなアパートの一室。がらんとした、引っ越し準備を終えたと言っていた、さみしい部屋。
それでも、残される死体をどうするのだろうか。

僕ならば、とワトソンは考える。
僕ならば、食べる。

普段の食事ではない特別な食事。夢中になれる時間。
憎しみか、願うは愛しさか。
どちらにしろ、特別な感情。そうではなければ、こんな食事はできない。
だから、食べてほしい。吸収したい。一つになりたい。
こんな特別な感情を持ったモノだったと、刻みたい。
白い肌はさらに白くなるだろう。その肌を食い破れば、まだ赤は見えるだろうか。もっともっと白くカタイモノが見えてもっともっと赤くヤワラカイモノが見えて。寒い冬の日みつけてしまった、あの鋭く黒い眼も。偶然を装い触れた、真っ直ぐな黒い髪も。たまにしか笑わない、薄く薄桃の唇も。難しいことを時折話す、肉厚な桃の舌も。自分の思いを聞こうとしない、複雑で白い耳も。細い指も細い首もしなやかな筋肉も。


ぜんぶぜんぶたべたい


ふ、と血が抜けていく音が止まる。
牙が抜かれる感触。忘れていた痛覚。
じ、とこちらを窺う顔に笑う。
今更なのか。
笑えば、さらに怪訝な顔。まだ、理解はしていないようだ。
『ホームズ』
唇だけで囁く。今、残された力は少ない。無駄にはできない。
ワトソンは微笑んだ。
『シャーロック、ホームズ』

あの日、忘れられない九ヶ月十六日前。
このホームズにワトソンは出会えた。
それはコンビニだった。寒さに負け、肉まんか餡まんか買おうと寄ったのだ。レジに並び待っていた、瞬間。
ロンドン。
古き良き時代、静かな過去と華やかな未来が混じり合っていた時代。ワトソンが最も懐かしむ、あの時代。
聞こえた。
目の前の男が呟いた、英語の悪口。あの時代の表現、発音。思わず、How do you do?と呟けば、男が振り返る。浮かんだ眼には懐疑、驚愕。
つまりは、ワトソンと同じ。

そうだ。
同じ。

何なのかはわからない。けれど、過去から生きてさらに未来をも生きる同じモノ。
ようやく見つけた。
こんな、遠い東の島国で。
何もかも忘れて縋りつき歓喜に叫んだ。
同じ。時間も育ちも生き物の形も言葉も命も同じ。
しかし男は驚愕したままで。懐疑を抱いたままで。とりあえずと連絡先を渡され時間が会えば話すようになり、何処かへ行くようになり、たまには互いの家に泊まるようになり。かけがえのない友となれたのに。
いつしかホームズは、なぜかワトソンをネット社会の産物だと思い込んでしまった。
違うと、何度伝えようと決して理解しない。
一緒にいたいと、何度伝えても苦く笑う。
ワトソンよりも孤独な不器用なこの男は、同じだと理解したがらない。
けれど。
『愛してる』
三日前だ。とうとうホームズが頷いてくれたのは。
『一緒にいたい』
しかし、理解ではなく耐えかねただけだった。いや、気づきたくないのだ。
永遠の独りに、やがて訪れる勝手な終りに。
可笑しくも、分類まで同じだというのに。
ごくり。ワトソンは喉を鳴らした。
ついつい思い出してしまう。

メアリー。愛しかったメアリー。食べてしまったメアリー。子供ができなくて本当によかった。

「ワトソン?」
『君は?
君は僕のことを愛してるかい?』

思う。誰かを愛したことが、今までにホームズはあるのか。ないだろう。
あれば、ワトソンのように考える。
同じ、なのだから。
それともわからないふりをしてきたのだろうか。
慎重、に隠れ今みたいに。ホームズは臆病だから。
何にしろ、今重要なのは、ホームズのワトソンの気持ち。

この行為は、憎しみか本当は愛しさか。

『どうなんだろう』
「…」
『聞きたい。サイゴになるんだ』
「……刻みたいと、思ったんだ。この、どうしようもなく生き続けてしまう身体に。私は、死ねないんだ。
ワトソン、私は吸血鬼というものなんだよ。
しかしだ。よくある吸血鬼とは結構違っていてね。日光も十字架も大蒜も平気さ。歳は取りにくい。君と同じ食事もできるけども、こうやって血を飲む食事もできる。
そして、死なない。死ねない。
いつか死ぬ―今死のうとしている君とは違う。
だから、だから…だからこの身体にワトソンを残したかった」
『君は本当に僕を愛していたんだ』
深く吐き出される、息と賛同の声。
微笑みながら、残った力でワトソンは手を伸ばした。応えるように、ホームズがその手を握り締めた。
強い、強い力。それほどの思い。


「でも僕はそれ以上に僕を愛しているんだ」


引き寄せる。
驚愕。見慣れた表情。
何度も、何度も何度も繰り返す。
愚かで、寂しさゆえに他を拒絶した、純粋などうしようもない脆弱な生き物。
「奇麗だ」
近づくホームズの顔、耳、首。歯を出して笑いながら、ワトソンはそのまま噛みついた。
皮膚よりも深く、肉に歯を刺す。
溢れ出す血。
久々の食事に涎がでる。やはり美味しいものだと飲み込む。
押し退けようとする力。吸血鬼としての本能は抗い人間としての感情は従い、ゆっくりとワトソンは口を離した。
「どうしてなんだ」
ホームズの顔を覗き込む。やや白くなった肌は頬骨がいつもより浮き上がって見えた。額を合わせ、さらに眼を覗き込む。細く尖った眼はいつもとは違い丸みを帯びている。いつもの冷静さは消失。呼吸も脈も速い。後ろへと整えられた黒髪から、整髪料の匂い。短髪だからあまり塗っていないだろうに、なぜかひどく薫った。

「ホームズ」

黒い眼に映る顔は満面の笑み。

「だから、僕は君を愛している。だから、僕は君と一緒にいたい。
誰よりも聡いホームズ君。ねぇもうわかっただろう」

徐々に顔の表情が変わる。驚愕から歓喜へと。
「ぅっ」
急に抱き締められる。額がぶつかり、無数の星。喚く声が耳に痛い。
「ワトソン!あぁワトソン!君も―君もだったとは!吸血鬼なのか君も!」
「ようやく気づいたんだ。よく今まで生きていけたね」
「だって、それは」「わかるさ。同じだから。
今だって少し動きにくいけど死にはしないよ」
「初めてだ…こんな……どうしたらいいんだ!」
「ずっと一緒にいてくれたらいいんだ」
ふ、と時が止まった。
「ホームズ?」
促せば、制止の声。何か聞いたはずだと、呻き声。


さすがかしこいかしこいホームズ!
唇だけでワトソンは笑った。

(よく覚えてました。そのとおり)

「ホームズ?もしかして僕のことが嫌いになった?そうだね。こんな重大なことを隠し続けていたんだ。
でも、僕はホームズがなんであろうとも愛している。たまたま同じ吸血鬼なのは嬉しいけれど、それだからだけじゃあ決してない」
(僕は僕を一番愛しているんだ。愛している僕が孤独で可哀相だから同じモノを探していたんだ。でも心の底から探してはなかったのに)

「ずっと、ずっと一緒にいたい」
(だって、いつか君はいなくなるかもしれない。それでも愛してる僕一人がいれば結局何も変わらない)

「食べてしまいたいほど愛してる」
(それほどにしか君を愛していない)


ホームズの眼が瞬き、ぼやけていく。唇にあたたかい感触。口髭にあたる、他人の息。
「私も、愛してる。
すまない、ワトソン。あまりのことに…あんまりな出来事だったからどうしたらいいのかわからなかったんだ。
でも気持ちは変わらないよ。先程言っただろう?
もし私が言い忘れたかもしれないと、もし君が聞き忘れたかもしれないと、そうあるなら何度でも言おう」
囁く声がくすぐったい。
「愛してる」
滅多にない満面の笑みを浮かべたホームズ。
「愛してる?」
「愛してる」
「一緒にいてくれるんだ?」
「ずっと一緒にいたい」
額擦りつけあい笑いあい。黒と茶の髪が混じり鼻がぶつかるほどに、距離を近づけあう。
「いいんだね?」
「喜んで。ワトソン、君は?」
「もちろん喜んで、だよ。ホームズ」
二人、キスを交わす。
どちらの咥内にも血が残っていて、美味さにキスが深くなる。簡単に溢れ出す涎をも味わおうと、舌を動かし唇を舐め上げた。その舌が捕われ遠慮なく噛まれ、甘い痺れが広がっていく。歯、舌、喉。負けじと狙い、余すことなく味わう。息も熱も上がる。
疑似的な捕食行為。
さぁ未来はどこまで交わっていくのだろうか。
不安も期待もなく、二人は互いしか見ようとはしていなかった。