石畳と本日は仄かな霧の町。大都会、ロンドン。 そして、ベーカー街。その片隅。 どこにでもいるような風貌のちっとも珍しくない、少年浮浪者は疲れていた。 はぁ、と眼が閉じる。 少年は今更ながらに思っていた。 なにやってんだろ 路地裏に潜み、また潜み、今日一日中ずっと影の中。 もっと汚くなれば生活に悪くなる。 ちょうどいい汚さだからおばさんたちは何かくれるのに。 「これが仕事ってヤツか・・・」 格好よく呟いてみて、少年はよっしと気合いを入れた。 今日一日の働きで一週間分の稼ぎになる。 きっと、この服だって捨てれるだろう。少しばかり酒も買えるだろう。 たった一日だけなのに。いつものようにある男を見張って報告するだけなのに。 馴染みの旦那はいつもより金を増やしてくれた。 『いいかい。君は見張る男に注意するんじゃあなくて、近づく男や女に注意をはらうんだ。 もちろん老いも若きもね。』 あの男はいったい何者だろうか。少年はつい考える。 何か大事なモノを持っているんだろうか。誰か人を殺したのだろうか。 旦那が呼んで仕事をくれるときは、おおかたそんな人間の見張りが多かった。 少年は浮浪者歴が長い。なんとなく胡散臭い人間はわかる。 だから、正しいことをしているようで実入りもいいし、旦那の仕事は好きなそほうだった。 それなのに、今日の人はまったくのいい人に見える。 どこかで会ったような気がするのは気のせいだろうか。 深い灰色と茶色で統一された、清潔感漂う服装。 帽子も靴も外套も、目立った汚れや毛羽立ちはない。 奇麗に整えられた茶色の髪に口髭の、落ち着いた紳士。 浮かぶ微笑みは柔らかく、どんな性格かなんとなくわかってしまう。 その度に少年は気合いを入れ直し、惑わされるなと思い直し、見張りを続けてきた。 今のところの紳士の記録 男と昼前出会う。 男は紳士と同年代、と思った年ではなくそう言ったほうがいいらしい、 で同じく奇麗な身なりの人だ。肌は焼けていなくて、黒い目黒い髪。少し背が高い。 そのあと、その男と昼ご飯を食べる。高い店ではない。ただのパブだ。 パブの名前は今回はいいようで、少し楽で助かる。 昼後、さらに男が加わる。 男は紳士と同年代で同じく奇麗な身なりの人だ。 肌は焼けていなくて、茶の目金茶の髪。見張れと言われた紳士と、同じくらいの背。髭はある。 三人で劇場に。 そして今、劇場から三人はでてきた。ちょうど月がはっきりと浮かんでいる。 あと、男に近づいた人間は、道を聞いてきたらしい男。 男は紳士よりも少し若く、大きな鞄を持った汚れた身なりだった。髪もぼさぼさ。肌は焼けてて、黒い目黒い髪。少し背が高い。 これだけ。 馬車が来た。乗り込むようだ。けれど、見張る男は乗らないようで。 それはまだまだ仕事は続くということで。ふぁあと少年は欠伸をした。 もし、これからもこんな変化のない様子だったら。なんだかどっと疲れる。 「どうだい?」 「ふぇっ?!」 振り返れば馴染みの旦那。 「あ〜・・・旦那かぁ!驚かせないでくれよ!」 「急いでいるのでね。それで?」 「えと、友達みたいな男とパブでメシ食べてそしたらまた友達みたいな男がやってきて劇見て今別れてるとこ。あと道聞いたっぽい男がいてさぁ」 「他には?」 「ほか?」 「どこに触ったとかあるだろう?」 「あの人が?」 「まわりの人間が、だよ」 「なかったけどなぁ・・・」 「本当に?」 少年は頭を傾げた。 「そりゃあないっていちゃあウソになるよ。でも挨拶のキスだって楽しいとき腕組むのだって、そんなの特別なことじゃあないだろ」 言いながら、冷汗がでてきた。旦那の眼がだんだんと光る。肉食獣を連想させる。 「そうか。ご苦労だったね」 ちゃりんと硬貨の音。 お金。少年が飛びついたときには、もう獣はいなかった。 仕事は終わったのだ。 「・・・オレの今日ってなんだったんだろ・・・・・・」 呟いてしまえば、膨れ上がる好奇心。見張っていた男はなんだったのか。何にあの旦那はあれほど怒っていたのか。 いやいや、落ち着いたほうがいい。 好奇心は猫をも殺す。生きていたいなら日々忘れること。 唱えながらふと見れば、目の前にあの男もいない。 霧に消えた、なんて考えて笑ってしまう。 「あ〜ぁ・・・ほんとになんだよ」 帰ろう。何かあったかいもんでも食べよう。 少年は歩き出そうとした。その耳に言い争う声が届いた。 その声に聞き覚えがあるような気がした。 膨れ上がった、好奇心が弾けてしまった。 「―!」 「―はだろう?」 「―心配しすぎなんだ。誰が―」 「いいや!君はわかってない!」 「わかってるよ!むしろ君がわかってないじゃないか!」 「何が?」 場所は向こうの角を曲がった、人気のない路地だ。 間違いなく、あの二人だろう。近づくにつれ、どんどん内容がはっきりしていく。 少年ははっきりと言い争う二人まで見れた。 慌てて建物の影に身を潜める。とうとう正体がわかるのだ。 旦那と今日見張っていた男。 わくわくの対決ショー、だ。 「僕の気持ちだよ!わからないのか、わかろうとしてくれないのか。一体どっちなんだ」 ついと旦那が動き、殴るのかと期待すれば、なんと見張っていた男を抱き締めた。 「それは私の台詞だ」 そして、あぁ神様! 抱き締めた男の顎を掬い、長いキス。 ぴちゃぴちゃとわざとらしい水音。熱い息遣い。 声を出す前に少年は硬直した。 思い出したのだ。 今日見張っていた男が誰なのか。 旦那を紹介してくれた、兄貴の言葉が甦る。 いいか?おれらの仕事は旦那の言う通りに動くこと。 あとは旦那の恋人、あそこにいたジョン・H・ワトソンとの間を邪魔しねぇこと。 「ん・・・こんなところでっ」 「言葉でわからなければ行動で示せ、というじゃあないか」 「だかんぅっんんーっ!」 「しぃ。今は行動で示す時だよ、ワトソン君」 そろり、足を動かす。 さもないと知らないぜ? 一目散に少年は走り出した。 とにかく逃げなければ。見つかればどうなる?あの、猛獣の眼。 「考えたくもねぇよ!」 叫び、走り、止まった。 ここまでくれば安全だろう。今日一日なんだったのだろう。 浮かぶ月に、少年は深く深く溜息を吐いた。 とにかく最悪の日だった。 もう放っておいてくれ! 文