目の前が陰り、ワトソンは顔を上げた。
見下ろすホームズと眼が合った。
「どうかしたのかい?」
ちらと机を見た。
目の前の机。
ワトソンの領域はほぼない。
隅に申し訳程度に、ワトソンが使う手帳だとかが乗っかっていた。他はまるで投げたかのように、ホームズが使っている様々な紙が散らばっている。
確か今日は地方の廃れた修道院の歴史、だったろうか。
何か困ったことが?と聞きかけ、ワトソンは飲み込んだ。
ホームズにとってこの問いは非常に繊細。

機嫌が良いときならば優しく拒否。
機嫌が悪いときならば冷たく拒否。+数日失踪か引きこもり。

今ならどうだろう。
悲しいことにまだそれほどまでに仲はよくない。
もっと悲しいことに、悲しいと思っているのはワトソンだけだ。
「ホームズ?」
お願いだからそんなにも見ないでほしい。
だが、椅子から急に立ち上がれない。
眼も急に逸らしたら嫌われたと勘違いされるのが、怖い。
息でさえしにくい。
ぐっとワトソンは眼に力を込めた。
それでも頬が赤くなるのはどうしようもない。
さらには気づいてしまった。
切れ長の眼。歪みのない鼻。薄い唇。
まぁまぁ男前の部類の顔。
無精髭や好き勝手な髪をなんとかすれば…あまり変わりはないだろう。
より磨かれた雰囲気になるだけで、この奇麗さは変わらない。誰かの眼に止まりやすくなるだけだ。
どうでもいいときっと言うだろう。羨ましい。
そうやって、見ている。
普段はゆっくりしっかり見ることもないホームズの顔をワトソンは見ている。
「は、どぅ?」
妙な音がワトソンから零れてしまったが、それどころではない。
体温が急激に上がる。
顔全体が赤くなる。
心臓が痛い。

唐突にワトソンは思った。

かなしい。
どうして僕だけ


思って、考えて、ワトソンは止まった。


じわり。
嫌な汗が流れる。

いやいやいやいやいやいや!いやいや!
高速で首と手を振り続ける、頭の中のワトソン。
実際にはもちろん振っていないのだが、気分が悪くなってきた。
あと手首も痛い。
これもファントムペインじゃないか、と思っても、隅でしかない。
「ふぅん」
小さくホームズが笑った。
いやいやいやいやいや!
頭の中のワトソン、速度上昇。さらには温度上昇。
笑ったホームズは首を傾げた。
そして頷く。
「ふむ」
そしてワトソンの肩に頭を乗せた。
「え?え?!」
「眠いんだ」
「ソファは?!いやベッドか?!」
「面倒くさい。それにだ。君は温かいからちょうどいい。寒いんだ。
君だって雨が降っていることぐらいわかるだろう?」
身体全体をワトソンの背中に潜り込ませようとするホームズ。
混乱していたワトソンはそれを許してしまった。
「それじゃあおやすみ」
背中と肩にぐっと重みがかかる。
眩暈。
ワトソンは本当に眩暈がした。
少しは悪いと思っているのか、ホームズは腕を畳み膝を立てたまま眠っている。
しかし顔は居心地の良さを優先したらしく、肩に乗っかったまま。
規則正しい寝息がワトソンの首と耳に当たる。
そう、ホームズは寝ていた。
その時間約十秒。
「ホームズ?」
もちろん返答なし。
こうなってしまえばワトソンにできることはただ一つ。
諦めることだけ。
「まったく」
やれやれとそれでも、極力動かないよう首を振る。
ふと思いつき、ペンを手帳に走らせた。

ホームズはどこででもすぐに寝れる

規則正しいばかりの寝息が寂しい。
顔が熱くなる。
けれど事実。
肩に乗る、ホームズの額にキスしてしまったのも。
少し考え、ワトソンはさらに付け足した。



僕のことはどうでもいいようだ