ruck
名詞
がらくた・ごたまぜ




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きちんとケースに収められた、ヴォイオリン。
靴の中に煙草、壁には弾痕、それに椅子の上や床に順序ばらばら紙だらけ。
この部屋の主にとって、それでもどの品物も大切だということは知っている。
けれど、その中にあるからこそヴァイオリンが一番大切にされているように見えた。
「大切なもの、か」
ヴァイオリンを見つめる、ワトソンの表情は凪のよう。
風、というには細やかな音。
カチャリ。
静かにケースは開いた。
肩に乗せて、弦を爪弾く。ビィンとベェンと、なんとも酷い音がした。
今度は弓を手にする。音が長く鳴り、消えた。
部屋の主とはまったく違う、奇麗なだけの音だった。
そのせいで、無性に聞きたくなった。
あの音楽で生計を立てている人々と遜色ない、すばらしい音色を。
なにより、どのような顔で彼はヴァイオリンをひいているのか。
馬鹿げた話だ。
それでも、と行儀悪く床に座り込みながら、ワトソンは考えてしまう。
自分とヴァイオリンは似ていると。
ワトソンの体毛や眼は茶。ヴァイオリンはもちろん弓まで茶。
白い指先によって、甘い音を出す。
そんなところまでよく、似ている。
「どうかしている」
優しく時に荒々しく触れる、指先。何より雄弁に語る、表情。
あの表情はヴァイオリンに触れるときと同じ表情なのか。
熱っぽい潤んだ眼で、僅かに頬を赤くさせ、と思い出そうとして、思い出せなかった。
愛してると囁かれたときの、表情すら思い出せなかった。
無理もない。
最後に触れられてから、もう日数がかなり経つ。
今ここで思い出せたとしても、それは記憶だけが形作った都合のいい偽物だ。
そう、頬なんて赤くさせていただろうか。愛している、だなんて本当に聞いたのだろうか。
わからない。
もうわからなくなってしまった。
彼が凡人特に女を厭うのは、こういった理由だからかもしれない。
それに比べて、ヴァイオリンはどうだろう。
何も言わず大人しく触れられるのを待っている。恨みがましい目も、皮肉も言いやしない。
ヴァイオリンと似ているのだなんて、どうして思ってしまったのか。
似ていやしない。
あぁそうだと、ワトソンは頷いた。
部屋の主はヴァイオリンには触っていた。
途端膨れ上がる苦しさ。
背を丸め、息を吐きだし、逃げようとして逃げれず、涙が滲んだ。
靴の中に煙草、壁には弾痕、それに椅子の上や床に順序ばらばら紙だらけ、そしてワトソン。
物ならば、喜んだだろう。不平不満を喚かないのだから。
苦しくもないのだから。
ふと、抱えたままだったヴァイオリンと弓に気づく。
腹立ちまぎれに投げつけようとして、結局できなかった。
膝立ちで丁寧にケースに戻し、蓋をする。
よく見ればケースには埃がついていた。
そういえば確かに最近触れていたが、一度くらいだろうか。
これからの暗示のようで、今ではヴァイオリンに同情できる。
必要なときにだけ必ず存在しなければいけないという、大切な物。
「やはり同じなんだ」
カチャリ。
静かに扉が開いた。
振り返れば、随分とくたびれた部屋の主が佇んでいた。
「おかえり。ホームズ」
「あぁ疲れたよ。でもこれでようやく、あの難しい問題も片付くだろうな」
「随分と長い仕事だったね。でも、簡単だって言ってなかったっけ?」
「中身はね。包装までするなんて、私は一言も言っていなかったのに。
勝手に動くなと言えば、本当に何もしないだなんて。本当に厄介だった」
「そう。お疲れ様」
よっと、ホームズはワトソンの側に座り込んだ。
ひどく、近い距離だ。
汗と泥に混じり、煙草と体臭が混じった匂いがする。
逃げるべきか、避けるべきだ。
人としてそう思うのにできなくて、伸びてきた手にワトソンから頬を摺り寄せてしまった。
矜持として、何か言おうとして、それすらもできなくて。
抱き締められる強さに、溜息しかでない。
「ようやく、君に触れれた。
やはり本物が一番いい。君は知らないだろう?
あやうくヴァイオリンに髭をつけそうになってしまったなんてさ」
耳元で囁かれた言葉に首を傾げる。
しばし考えてみたが、もちろんわからなかった。
「どういう意味だい?」
「頭を空っぽにしなければいけないということだ」
「僕は食事じゃないけども?」
「同じことさ」
「どういうことだい?」
「さぁね。それにしても少し寝かせてくれ」
「ホームズ!」
叫んでみるが、ホームズはもう眼を閉じていた。
身体を滑り落とし、ワトソンの太腿に頭を落ち着かせると、もう動かない。
この様子だと、きっと起きてからも上手く誤魔化されるに違いない。
永遠に意味不明なのは決定づけられた。
救いを求めて、ワトソンはヴァイオリンを見た。
けれど、物は何も言わない。
当然だ。
同じだなんて、どうして思えたのだろう。
どちらか幸せだなんて、もうわからない。
今は、ワトソンが幸せだった。
とりあえず、ホームズはワトソンの側にいるのだから。