患者の履歴に新しい事柄を付け足しながら、ワトソンは首を傾げた。 他になにかありますか、と声をかける。 体が痛むとぼやいていた老いた患者はまたぼやきを繰り返して、おやと呟いた。 「ほぅ。ご盛んですなぁ」 続く言葉に、反射的に手は首を押さえていた。 しかし、患者はひひひと笑い、耳の辺りを指し示した。 「そ、そうですか」 なんとかそれだけを呟けば、首を傾げないほうがよろしいと患者は言い残し去って行った。 あれだけ体が痛むとぼやいていたのに、颯爽とした足取りだ。 残されたワトソンは、独り診療室で溜息を吐いた。 今だ首を押さえていた手をずらし、あるらしい耳の辺りに触れる。 なぜか、熱く感じられるのは感情が高ぶっているからだ。 医者として冷静な判断を下すものの、そのことがより一層悲しい。 自由な同居人は何をやっているのか。 隠れ家に変装。とらえどころのない、あの人。 本当にいるのかいないのか。 もしかしてこの状況でさえもある一種の夢であるような気がする。 ワトソンですらわからない。 一人で住むには広すぎる部屋で、馬鹿みたいに夢を見ているだけなのか。 記憶の改竄。 奇麗にいえば、新しい幸せな記憶。 当人でさえ自覚がないのに、どうやって。 小さく、夢かも知れない名前を呟き、ワトソンは呻いた。 淋しい。 備え付けた鏡に必死になって映してみれば、確かに耳の辺りに現実の名残。 それでも、淋しい。 ふらりといつか彼は帰ってきて戯れにまたこのような名残を残し、消えていく。 もしかするとが重なり重なり、やはりになったときに彼は帰ってくる。 ワトソンの都合よく。 あぁそれならば、全てが夢か。 「ワトソン?」 「誰だい?」 「誰って決まっているだろう?」 「決まってなんかいないさ」 「大丈夫かい?何か変な薬でも吸ってしまったんじゃないだろうね。 しっかり窓を開けたまえ。 どんなものでも劇薬に変わる可能性はあると常々言っているじゃぁないか」 せかせかと動き回る姿をぼんやりとワトソンは見た。 窓の向こうは夜。 いつのまにか、夜。 「夜?」 「そうだよ!ワトソン君! まったく心配したじゃぁないか!」 「心配?」 「明かりも点けずここにいていることもハドソン夫人にも何も言わずいつものように君はいないんだから、心配になるだろ? 当り前じゃないか。まったく、いつもとは立場が逆になってるなんて! いったい何があったんだい?」 よく喋る。 何か、言いことがあったのか。 それとも、ワトソンが喋ってほしいと思っていたからか。 「本当に」 けれど、このキスは。 唇に触れ、ワトソンは首を傾げ、何度か瞬きをした。 「ホームズ?」 そうして辺りを見渡す。 「あれ?もう夜なのかい?え?君はいつ戻ってきたんだい?」 「いったい君は」 本当にわかっていない様子にホームズは首を振り振り何か言おうとしたが、諦めた。 なぜなら、ワトソンのお腹が鳴ったから。 軽く頬を赤らめつつ、ワトソンは立ち上がる。 もちろんホームズもその気だったから、今度は開けた窓を閉めに行った。 今日は何を食べようか。 そう言って、小首を傾げれば見えるモノ。 薄くなったソレをまた濃くしながら、ホームズは呟いた。 返事は軽い殴打。 それでも、ワトソンは僅かに頷く。 幸せそうに笑いながら。 夢みたいだと、囁いて。 文